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阪神5001形電車(はんしん5001がたでんしゃ)とは、阪神電気鉄道が所有する通勤形電車である。同社において5001形を名乗る形式は、1958年に2両製造されて1977年まで在籍していた、「ジェットカー」と呼称される一連の高加減速通勤車の試作車として知られる初代と、1977年から1981年にかけて初期型「ジェットカー」の代替を目的として32両が製造され、2011年現在も普通(各駅停車)運用の主力車両として運用されている2代目の2形式が存在するが、本項では初代について記述する。 == 開発経緯 == 大阪 - 神戸間で併走する阪神本線、阪急電鉄神戸線、東海道本線(JR神戸線)の3社線の競合区間、つまり大阪・梅田 - 三ノ宮・三宮の営業距離は30km前後で各社とも大差ない。だが、駅数を比較すると、阪神本線の32駅〔1958年当時臨時駅であった尼崎センタープール前駅も含む。2011年現在は西宮・西宮東口統合に伴って31駅に減少している。〕に対して阪急神戸線は15駅、東海道本線は11駅〔1958年当時の駅数。2011年現在は甲南山手・さくら夙川の両駅が設けられたので13駅に増加している。〕となっており、阪神本線は他の2線と比して駅数が倍以上となっている〔明治の創業期に西国街道に沿って既存の集落を結び、こまめに駅を設けたことに由来する。〕。 この、駅数が多いという特徴は、創業当初の阪神本線においては高頻度運転とともに国鉄線に対する優位性をもたらすものであったが、大正年間の阪急神戸線の開通(1920年)や昭和初期の省線電車登場(1934年)によって三つ巴の電車による競争が開始されると、逆にこの特徴および曲線の多い線形が運行速度向上による列車の速達化において大きなハンデキャップとなった。 このため、戦前期の阪神においては第二阪神線として良好な線形のバイパス線建設を計画する一方で、既設の阪神本線においては801・831形や851・861・881形といった高速性能を重視した走行特性を備える急行系車両と、601形や1001・1101・1111・1121・1141各形式のような経済性を重視した設計の普通系車両の2本立てとし、2系統の列車の主要駅での緻密な緩急接続によってこのハンデキャップを補う運行形態が取られていた〔そればかりか、一時は主要駅間に並ぶ奇数番目の駅と偶数番目の駅のいずれかのみを停車する列車を交互に運転することで阪神間の所要時分を短縮するといった運行形態も試みられていた。阪神電鉄における駅数の多さが所要時分の増大につながり、同社がその対処に苦慮していたことを最も端的に示す施策である。〕。 こうした運行形態は戦後も継承され、1954年に登場した3011形の新造に始まる車両の大型化・高性能化に際しても、急行用については1958年に、後に「赤胴車」と呼ばれるようになる高速性能重視の3301・3501形が大量に新製投入され、小型車を置き換えるとともに輸送力の大幅な増強を実現した。これに対し、古い木造車からの機器流用車が多数を占めていた普通系車両の大型車への置き換えに際しては、これら「赤胴車」とも在来車とも全く違う、新構想〔この構想は後に阪神電鉄社長に就任することとなる野田忠二郎らによって発案されたもので、野田はこの構想に基づく論文で工学博士号を取得している。〕に基づく極めて厳しい走行性能が要求されることとなった。 駅間距離が短く線形面で劣勢にあり、しかも戦前以来の伝統で高頻度運転を実施し線路容量に余裕のない阪神本線においては、他の2線に対し充分な競争力を備えた所要時分を実現するためには、特急や急行といった主要駅のみ停車の優等列車だけではなく、緩急結合と優等列車の速度低下抑止の2点から、各駅停車の普通列車についても高加減速性能と一定の高速走行性能を併せ持つ新型車を投入して表定速度のスピードアップを実施し、阪神本線全体の列車運行速度の底上げを行う必要があった。 具体的に言えば、後発の優等列車に追いつかれる前に、先発する普通列車が主要駅に設けられた待避線に到着することが求められたのである。 そのような事情から、普通系大型車両の開発に当たっては駅間距離約1kmの区間〔阪神本線の駅間距離の平均値。〕を約1分で走行し、阪神間を各駅停車しつつ45分で走破することを目標として、従来を大きく上回る高加減速性能と、最高速度100km/hに達する高速性能の両立が基本条件として課せられた。 一般にこのような車両は粘着性能の確保などの必要から全電動車方式とするなど機構が複雑になり、また力行して加速後、直ちに制動を行って減速するため、エネルギー効率の点で有利な惰行がほとんど行われず消費電力量も増加するため、1列車の運行というミクロな観点ではイニシャル・ランニングの両面でコストアップが不可避となり不利である。だが、その一方で列車の速達化は、乗務員と車両運用の回転率を向上させ、車両保有数の削減を可能とするから、長期的に見た場合、全体としてのイニシャル・ランニングコストの収支により、一般的な車両を運行する場合よりもむしろ低廉となることが期待できる。 こうして綿密かつ合理主義に貫かれたコスト計算の結果導き出された設計コンセプトから、普通系新車には設計当時の日本の電鉄技術のみでは実現が困難な加減速性能が求められた。 そこで阪神電鉄技術陣は1950年代当時、斜陽化しつつあったとはいえ電鉄技術において未だ世界の最先端を走っていたアメリカに範を求めた。プロトタイプに選ばれたのは、シカゴ・Lの最新鋭車である「スーパーカルダン」〔MC車とも。〕こと5000・6000系〔試作車である5000系連接車は1948年にプルマン・スタンダードおよびセントルイス・カー・カンパニー (St. Louis Car Company) で、量産車である6000系ボギー車は1950年から1959年にかけて、5000系を基本としてセントルイス・カー・カンパニーでそれぞれ製造された。いずれもPCCカーの技術を応用した弾性車輪・直角カルダン・電空同期ブレーキ機構によるシネストンコントローラ(ワンハンドルマスコン)装備の高性能車で、6000系は1980年代までシカゴ・Lの主力車種として重用された。〕で、その機能・性能を阪神本線の実情に適応した形に落とし込むべく開発が進められた〔シカゴ・Lの5000系が竣工して間もない『電気車の科学』1948年11月号で「P.C.C.電車について」として野田忠二郎が論文を寄稿しており、彼をはじめとする阪神電鉄技術陣が早い時期からアメリカの高性能電車に注目していたことが知れる。〕。もっとも、シカゴのものと比較すれば簡略化されていたとは言え、従来の車両に比べると高度な技術が要求されたことから、いきなり新設計機器を搭載した新車を新造するのはリスクが大きすぎた。そこで、3011形新造時の手法を踏襲して在来車に試作機器を艤装し、実際に本線上を走行させて必要なデータを収集することとなった。3011形のための試験の際と同様に、1121形1130をテストベッドとして、1956年から翌1957年にかけて台車や制御器、主電動機などの各種試作機器についての長期実用試験が実施され、日本では前例のない破格の性能を備えた新型車の設計に必要なデータ収集が行われた。このとき得られたデータをもとに、1958年7月に次世代普通系車両の先行試作車として製造されたのが、期待を込めて5001形と大きな番号を与えられた本形式である。 本形式は、5001が日本車輌製造、5002が川崎車輛においてそれぞれ製造された。 これら2両は、従来の普通系車両を大きく上回る性能を備えていたことから、プロペラ機に対するジェット機に比喩して、「ジェットカー」という愛称を授けられた。 以下に本形式就役開始当時、阪神電鉄社長であった野田誠三が寄稿した一文を引用する。 :''(前略)「ジェットカー」の名称は工学的な性能から与えられたペットネームでありますが、弊社としては「ジェット」の音は正しく日本海海戦の「ゼット」旗と同じ響を持っているものと考えており、電気鉄道事業界に山積する困難をこの「ジェット・カー」により見事克服することを私は心から期待しておる次第であります。'' 当時の阪神にとって本形式の成否が、本業である鉄道事業の興廃にかかる一大事であると捉えられていたことが、この一文からも窺うことができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阪神5001形電車 (初代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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